アンカヴァーリングザヴォイスとの出会い
私は現在、歌を教える仕事をしていますが、
昔の自分を思うと、それが不思議でしかたがありません。
フィンランドの歌の学校に入学するまで、
音楽教育を受けたことはありませんでした。
幼少期の音楽体験は辛い思い出しかなく、
幼稚園の時にピアノを習い始めますが、
間違うと手を叩かれていて、
どんどん気持ちと身体が委縮してしまい、
ピアノを弾くのが苦しくなってしまいました。
両親は慎ましい生活の中から、
私の為にピアノを買ってくれたことを分かっていましたから、
すぐにピアノを止めたいと言う事ができず、悩んでいました。
稽古の日は足取りも重く、教室の周りを何回も廻ってから
行くようになりました。
そして同時に、私は楽器を弾くのは
むいていないと思うようになりました。
中学生になると、聖歌隊に入って歌いたいなと
思うようになりましたが、音楽の先生の一言で、
私は聖歌隊に入れるレベルではないことにショックを受けて、
それから、人前で歌うことを止めました。
楽器を演奏するのも、
歌を歌うのもどちらも苦手になりました。
そして、自分から遠ざけていました。
小学校、中学校では、音楽の時間が恐怖でした。
笛を吹こうと思えば手が震え始め、
歌おうと思えば、緊張で歌えない。
でも、いつも、いつも、楽器を自由に弾ける人、
それから、歌を歌える人に、ずっとずっと憧れていました。
できるなら、自分も楽しく音楽をしたい!と
いつもいつも思っていたのです。
33歳の時に、私が現在教えている歌唱法、
「アンカヴァーリング・ザ・ヴォイス」に出会いました。
だれの中にも歌声はあって、歌いたい!と思えば
だれでも歌うことができるんだという真実に出会ったのです。
アンカヴァーリング・ザ・ヴォイスの勉強がしたくて、
まず私が歌を取り戻したいと思いました。
日々、勉強したい気持ちが募ります。
そこで自分にできることから準備を始めることにしました。
ドイツ語を学ぶこと、留学の資金を溜める事、
家族と話し合う事。
東京でアンカヴァーリング・ザ・ヴォイスに出会って、
5年の歳月が経ってからようやくドイツに
勉強に行けることになりました。
それは37歳の秋のことです。
ドイツで勉強を始める
ドイツにはアンカヴァーリング・ザ・ヴォイスの
全日制の学校はありません。
私は最初から歌唱療法を学びたいという希望があったので、
ドルトムントにあるアントロポゾフィーの
老人ホームで歌唱療法士として働いている
ラウスマン先生から個人授業で教えて頂くことになりました。
ラウスマン先生はヴェルベックから
喘息の治療で歌唱療法を受けていた患者さんでもありました。
私と同じくらいの小さな背丈で、
笑顔が印象的なかわいいおばあちゃまです。
レッスンは老人ホーム内にある彼女の療法室でした。
水色の布張りのソファーと、
中央には小さな丸いテーブルが置かれていて、
そこにも同じ水色のテーブルクロスが掛けられていました。
いつもレッスンに伺うと、
そのテーブルの上にはラウスマン先生が庭で育てられた
花が活けられていて、心を和ませてくれました。
私はその頃、治療教育施設の学校で実習を行いながら、
週に1回ラウスマン先生のレッスンに通っていたのです。
慣れないドイツ語を話し、
まだ生活も落ち着いていなかったときですので、
ラウスマン先生にお会いできるのは、
私にとって、心のなぐさめでもありました。
レッスンが夜遅くなると、
先生が車で最寄駅まで送って下さることもあり、
本当にお世話になるばかりでした。
しかし、先生との別れが突然にやってきました。
夜中にお腹が痛くなり、
ルームメイトに付き添われて病院へ行ってみると、
そのまま一週間の入院。
世間はもうすぐクリスマス休暇に入る頃で、
街は華やかさに喜んでいるのに、
私は一人病院のベットに横たわっているばかりでした。
日本で治療した方が良いという判断で
帰国することになりました。
5年の準備期間を経て、
やっとの思いでドイツで勉強できることになったのに、
腰を落ち着ける間もなく、帰国することになりました。
ラウスマン先生にもお会いして報告する時間もなく、
手紙をお送りしました。
日本に帰るために空港に向かう時に、
ブッパタール駅で見た月を忘れることはできません。
私はぜったいにここへ戻ってくるのだと心に誓ったのでした。
『歌を通して心と体を整える声の専門家』
シンギングセラピスト(歌唱療法士)平井久仁子
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