先週の火曜日から木曜日まで、家族旅行で山形県に行ってきました。夫と私の二人旅ですが、毎年初夏か秋に行く旅行を
夫は「家族旅行」と呼んでいます。家族旅行と聞くと、2世代、又は3世代が揃っているイメージがありますよね。
私達には子供がいないので、なんとなく違和感がありましたが、最近はこの呼び方が気に入っています。
「山に染み入る蝉の声」の山寺へ行ってきました。山形駅から普通列車で20分程で到着します。奥の院までは1015段の石段を上がります。一段、また一段と上る度に、煩悩が振り払われるそうです。
その日は今年初めての夏日で気温が31℃ありました。休み休み、ゆっくりと登り、奥の院の先、山のてっぺんにある五大堂からは、山に囲まれた谷間に広がる集落が見えます。
しばらくふーふーと息が上がっているのを鎮めながら、風に吹かれていました。
呼吸が落ち着いていくと、心も静かになって、そうすると、色々な音が聞こえてきました。鳥の声、葉が触れ合う音、列車が走る音などなど。
空気が振動して、響きを運んでくれます。
こういう時、頭の両側に付いている耳がまるで全身に拡大されているように感じます。
見たくない物は瞼を閉じれば見ないで済む目と違って、耳はそのままでは閉じることができません。手で塞いでやらなければなりませんよね。だから、耳は聞きたくない音は聞こえないようにしています。全部の音を全部聞いていたら、大変なストレスになるでしょう。
歌っている時の声を聞きている時も同じです。
例えば、耳が「好ましい」か「嫌だ」という物差でしか聞いていなかったら、その物差にひっかかる声(響き)しか聞こえません。前回の記事で、私の内側から外に広がって行く声の響きが、私にはまるで野獣が叫んでいる声にしか聞こえなかったというのは、そういうことです。
私には今までのような明るく、軽やかで透き通った声の響きを良しとしていて、それ以外の声の響きは受け入れられなかったのです。
粗野でガサツな声は、私らしくない。
こういう耳の聞き方だと、新しく加わろうとしている響きに耳を閉ざしてしまっています。ヴェルベックは、「いかなる時も主観を交えず、客観的に自分の声を聴くこと」と教えていました。そうすると、「響きの方から開示してくれるようになる」と。
粗野でガサツな声と思い込んでいただけであって、そこに耳を開いて聞き続ければ、もっといろいろなことが聴こえるようになります。
アトリエ・カンテレでは、どのセッションでも声を通して本来の私に還ることを行っていますが、本来の私っていうのは、綺麗な部分だけではなくて、みっともない部分だったり、恥ずかしい部分だったりそういう所全部ひっくるめて「私は私だ」と納得できることだと思います。
歌唱療法士 平井久仁子