私は自分の考えていること、
感じていること、
計画などをノートに書くことを10代の頃から行っていました。
その行為が「ジャーナリング」と呼ばれていることを
外国に住むことになって知りました。
旅行に行くときも、
近くに散歩に行くときも、
喫茶店に行くときも、
いつもノートとペンを持っていきます。
そして、書きたいときに、書いています。
ずっと書き続けてきて、
書き方も変化していきました。
最初の内は、
ただただ自分が感じたこと、
考えたことを書き連ねるというやり方だったのですが、
これでは、書いても書いても、
表層の部分をぐるぐる巡っているばかりで、
自分の深い部分に降りていかずに、
ノートに書いた後も、
思考も感情もすっきりした感覚が無くて、
私の内から得た洞察も
どことなく腑に落ちないものでした。
それが、フィンランドの歌の学校で学ぶことになり、
シュタイナーのアントロポゾフィーの思想を知ることになって、
人間というものには、「自我」という存在があって、
その「自我」も「高次の自我」と
「低次の自我」というものがあることがわかりました。
私は「高次の自我」とは、
「成熟した大人の自我」
または、
「真の自我」と理解しています。
そして、
「低次の自我」というのは、
普段の生活を司っている自我と理解しています。
社会規範を守ったり、
自分のやるべき仕事を遂行したりする「自我」です。
私がノートを広げて、書き始めても
表層の部分だけで、ぐるぐると巡って
書いても書いてもすっきりしなかったり、
洞察だと思っても、
それは何か社会規範に沿った
自分を正すものだったりしたのは、
私の「低次の自我」がメインになって、
ノートを書いているのだと、ひらめきました。
「低次の自我」がメインでは、
書かれることも、それによって得た「洞察」も
日常を越えた、もっと叡智に富んだ
俯瞰的な洞察は得られません。
では、「真の自我」に通じて
そこから「洞察」を得るための
「ジャーナリング」にするには、
どうすればいいのだろうかと考え始めました。
それは、
思考・感情・意志を肉体に統合させること。
その状態でジャーナリングを行うこと。
また、
ジャーナリングでは、
思考のみを活性化させて書くのではなく、
感覚、感情も共に活性化させて書くこと。
それを行うことによって、
普段の生活レベルの意識状態では
アクセスすることが難しかった
無意識下に沈んで、隠されてしまっている
「自己の本質」や「真の自我」に触れることができます。
昨年の12月に行った
「Takka☆Aika」(暖炉の時間)でも
ジャーナリングを行って、
その方法をお伝えしました。
「Minä☆Aika」(私の時間)でも、
声とジャーナリングを用いて、「真の自我」から
洞察を得る方法をお伝えしています。