今回の記事は、「個人的な歌と個人を越えた歌の違い」についてです。
これからお話することは、歌うことを仕事にしている歌手の場合でも、趣味として歌っている人の場合でも、どんな人にも当てはまるお話なので、聞いてください。
そもそも、個人的な歌と、個人を越えた歌って何が違うのでしょうか?
考えてみたことがありますか?
ものすごく大雑把に言ってしまうと、自分本来の声に、余分な色付けをしてしまう興味から自由になれない歌。
自分の声に己惚れていたり、うまく綺麗に歌おうとすることだけに執着することも個人的な歌。
下記の記事でお伝えした、体に依存した歌い方も、個人的な歌の範疇を越えることはできません。
それでは、個人を越えた歌を歌うにはどうすればいいか?ということですが、それには、自分の耳の使い方を変えてみるのです。
耳の聴き方を変えると、個人的な歌から、個人を越えた歌が歌えるようになります。
歌っている時に、自分の声を客観的に聴いてみる練習をしてみてください。客観的にということは、自分が歌っている時に、あたかも他人が歌っているかのように聞いてみる事です。
それに成功すると、自分の今まで知らなかった声が聞こえる、または、自分ではない人が歌っているように聞こえます。
すると、自分の声に対して必要以上に批判的でなくなります。そして、自分の声に酔わなくなります。
その結果、自分の声を個人の所有物だと感じなくなるのです。
自分の歌声が個人を越えて、響き始める瞬間です。
私の場合は、響きの源泉と繋がった一体感と、何ものにも束縛されない自由な感覚を私は感じます。自分の身体は、ただただ響きを受け入れては、放つ導管のように感じます。
レッスンでは、声が鳴り始める前から鳴り終わる瞬間までに耳をどのように準備して聞くか、実際に音が鳴り、そして鳴り終わる時にどのように手放すか、そして、次の声が鳴り始めるまでの間に何を意識すればいいのか、それを丁寧に練習します。
声が鳴っている時はさほど重要ではないのです。
それは二の次くらいかな。
声が鳴り終わり、その次の声が鳴り始めるまでの”あいだ”が一番重要なのです。
耳を澄ませば、この”間”が、全く音が鳴っていない無味乾燥な空間から、色とりどりの花々が咲き誇る空間に変わります。
耳を澄まさなければ、聞こえる音として開示されないのです。
こういった練習を積み重ねていくと、何が個人的で、何が個人を越えたものかが次第に自分の耳で聞き分けられるようになってきます。
頭で分かっていただけでは、できない事。実際にやってみなければ、体験として自分の物にはなりません。
その練習をやってご自分の声を再び手にするのです。
自分の声を再び取り戻した方の感想はこちら↓
◆歌う事が困難な状況でも、その人の声の響きは確実に存在している
個人的な歌から、個人を越えた歌になってくると、まったく声の響きが変わってきます。
この記事の冒頭で、歌手として大勢の聴衆の前で歌っている人も、そんな機会はないけれども歌っている人も聞いてくださいと言ったのは、このような理由があるからなんです。
個人を越えた歌を歌えるようになると、歌手の人にとっては、聞いてくれている人の心身の健康、そして、魂の栄養になります。
とても小さな個人的な自我意識に束縛された音楽ではなくて、純粋な芸術としての音楽を表現して、それを聞いて頂けるのです。
これは、幼稚園や保育園、学校で先生として歌う人の場合もです。子どもたちの魂の栄養になります。
お母さんがお子さんに歌ってあげる場合も、高齢の方たちに歌ってあげる場合にもです!
芸術としての音楽は、ステージに立って歌う人だけの特権ではなくて、日常の生活の中でも表現できるものです。
誰でもが当たり前のように生活の中で歌うという行為を通して、何が個人的で、何が個人を越えたものかが分かれば、日々の生活でも何が個人的な事で、何が個人を越えた事なのかも頭ではなく感覚として分かってきます。
それが自分の声を通して分かるのですから、こんなに素晴らしい事はありません。
日々、様々に起こる出来事に対して、翻弄されることなく自分を持って、人生を歩むことができるようになります。
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