
先週、
ジャーナリングの講座を開催しました。
私のジャーナリングは、
自分に正直であることを何よりも大切にしています。
本当のことを書きたい。
きれいな言葉じゃなくてもいい。
立派な人間でなくてもいい。
誰かに褒められるような内容じゃなくてもいい。
ただ、自分の本当の気持ちを書きたいのです。
ところが、これがなかなか難しいのです。
なぜなら、書き始めると、
すぐに口を出してくる存在がいるからです。
それは、
読み手の私。
「そんなこと書いたら嫌われちゃうよ」
「ちょっと大人げないんじゃない?」
「もっと謙虚になりなさいよ」
「そんなこと思っちゃダメでしょ」
もう、ほんとうにうるさいんです。
誰かに見せるわけでもない。
誰かに読ませるわけでもない。
それなのに、
自分の本音にまで、
いちいちダメ出しをしてしまうのです。
本当は腹が立っているのに、
こんなことで怒る自分は心が狭いと思う。
本当は羨ましいのに、
そんな自分は嫌だと思う。
本当はことわりたいのに、
いい人でいたくて「大丈夫」と言ってしまう。
本当は寂しいのに、
平気なふりをする。
本当はもっと欲しいのに、
欲張りだと思われたくなくて、
欲しくないことにする。
……あれ?
これって、
誰に気を遣っているんでしょうね。
自分の心の中でさえ、
誰かの目を気にしている。
私たちって、
なかなか複雑な生き物です。
だから私は、
ジャーナリングをするとき、
書き手の私を優先します。
ただ、
自分が本当は何を感じているのかを知ること。
何を嫌だと思っているのか。
何を欲しがっているのか。
何に傷ついているのか。
本当はどうしたいのか。
それを、自分だけは知っていてあげる。
私は、
それがとても大切なことだと思っています。
冒頭に書いた、
「書き手の私」と「読み手の私」ですが、
「本当の私」と「人格の私」と言い換えることもできます。
あまりにも「本当の私」と「人格の私」が
離れていると、
または、「人格の私」が本当の私だと思い込んでいると、
ジャーナリングしていても、「人格の私」の言葉しか出てきません。
まことしやかに綺麗な言葉が書き連ねられても、
どこか満たされない感じがしたり、つらい感じが残ったりします。
その結果、ジャーナリングをやめてしまうのかもしれません。
頭と身体が繋がっていない状態なので、
偽りのストーリーをずっと聞かされている状態を
無意識は耐えられないのかもしれません。
そんなとき私は、
身体の感覚に意識を向けることにしています。
頭で考えていることと本心がずれていたら、
身体のどこかの感覚が
「それ、ずれているよ」と教えてくれるからです。
普段の生活の中でも、
思考優位で算段して、
推し進めていこうとすると
心と身体感覚は気が付かれないまま
置いてきぼりにされています。
時間に追われて、
あわただしく過ぎていく日常の中で、
そこに気づいていくのは、
なかなか難しいことでもあります。
だから、ジャーナリングの時間は、
そこのずれに気が付いて、
調整していく時間でもあります。
「頭で書く」から「感じて書く」に。
書きながら、
「思考」と「感じていること」と「身体」を
まとめていきます。
さて。
あなたは最近、自分にどんな嘘をつきましたか?
本当は嫌だったのに、笑って済ませたこと。
本当は言いたかったのに、飲み込んだ言葉。
本当は欲しかったのに、いらないふりをしたもの。
もしも、誰にも見せなくていいノートが一冊あったら。
誰にも嫌われないようにしなくていい。
誰にも褒められなくていい。
誰にも理解されなくていい。
そんなノートに、あなたは何を書きますか?
次回のジャーナリング講座は、
来年の春分のころを予定しています。
春分は、
昼と夜の長さがほぼ等しくなる節目。
新しい季節に向かう前に、
心の中に溜まったものを少し書き出して、
自分自身とゆっくり向き合う時間をつくってみませんか。
私のジャーナリングは、誰かに見せるためのものではありません。
自分の本当の声を、自分が聴いてあげるための時間です。
次回の開催が近づいたら、あらためてご案内しますね。
そのとき、もしあなたの中に、
「そろそろ、自分の本音をちゃんと聴いてあげたいな」
そんな気持ちが芽生えていたら。
ぜひ、一緒に書きましょう。
日々の垢を落として、すっきり、しなやかに生きるために。
誰のためでもない、あなた自身のためのジャーナリングを。
アトリエ・カンテレ
平井久仁子
